- 作者: 梶井基次郎
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1991/05/25
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 20回
- この商品を含むブログ (62件) を見る
「えたいの知れない不吉な塊」を抱きながら京都の街を彷徨う「私」は
店頭に出ることが珍しい「カリフォルニヤ」産のレモンを買う。
それは「生活がまた蝕まれていなかった以前」好きだった丸善で
「一等いい鉛筆を一本買う」ような贅沢な行為であり、今の「私」に必要な行為であった。
「総ての善いもの総ての美しいもの」を体現するかのようなそのレモンの重さを手にし、
次第に幸福感を感じ始める。
あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らわされる
--或いは不審なことが、逆説的な本当であった。
それにしても心という奴は何という不可思議な奴だろう。
「平常あんなに避けていた丸善」の前にいることに気付き、
今なら「易やすと入れる」ように感じた「私」だったが
しかし丸善に入るとまたあの「憂鬱が立て込めて来」た。
大好きだった画集を手にした時さえも、その重さに堪え難く、置いてしまう。
ふと積み重なった画集の頂に檸檬を置く。
-それをそのままにしておいて私は、何喰わぬ顔をして外へ出る。-
くすぐったい気持ちで「美術の棚を中心として大爆発をする」丸善を想像しつつ、
丸善を後にするのだった。
1924年の作。
「えたいの知れない不吉な塊」や爆発を想像しほくそ笑むような感情を
いまの社会は否定する。果たしてそれは負なのだろうか。
『檸檬』を読むとそんなことを考える。
短編好きの私にとってかなり好きな作品のうちのひとつ。
ちなみに今年の10月に閉店した京都丸善に積んであった『檸檬』の上には
客が置いていったレモンが十数個にもなったというニュースを読んだ。
日本人もまだまだすてたものではないな、なんて。