- 作者: フィツジェラルド,野崎孝
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1989/05/20
- メディア: 文庫
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ずいぶん久しぶりに手に取りました。読んだのは高校生以来かもしれません。
当時読んだときのワクワク感というか感動が少なかったのが残念。
年齢や経験を重ねるというのは得るものも多く、また失うことも多いのだと思わされる瞬間です。
さて、本書は1925年に発表された作品。
1920年代というのは、戦後の技術革新と消費拡大による
「永遠の繁栄」を享受していた時代ですが、
同時に両大戦に挟まれた「失われた世代」の時代と言われていて、
この小説の舞台では、1929年の大恐慌の足音が聞こえてくる前の、
儚い夢のような一瞬が描かれています。
中西部の名家、キャラウェイ家に生まれたニックは、
少しの憧れと中西部でのしがらみを半ば逃れる形で東部にやってくる。
たまたま見つけた住処は、ニューヨーク郊外のロングアイランドにある
ウェスト・エッグという場所に位置していた。
上流階級の人々が住むイースト・エッグをちょうど岸向かいに臨む、”地味な方”で、
彼の新しい家は巨大な邸宅に挟まれるようにして佇んでいた。
そのうちのひとつ、立派な邸宅を構えてるジェイ・ギャツビーは謎に満ちた男で、
毎晩のように催されるパーティーにはあらゆる人が訪れていた。
しかし彼の素性を知るものは居ず、
皆は「人を殺したことがある」、「戦時中ドイツのスパイだった」、「酒の密売をやっている」
・・・などとまことしやかに噂するのだった。
ぼくがはじめてギャツビーの家へ出かけた夜、
ぼくも含めてほんとうに招待を受けてきた客はごわずかしかいなかったはずだ。
人々は招待されるのではない-彼らのほうから出かけて行くのだ。
ロング・アイランドまで運んでくれる車に乗り込み、
ともかくギャツビーの邸の入り口で降りる。
ここまでくれば、だれかギャツビーを知っている人間が招じ入れてくれる。
後は遊園地の行動原則にしたがって振舞うだけだ。
ときには来てから帰るまでに一度もギャツビーその人に会わぬこともある。
パーティーが好きでやってくるその単純素朴な心、それが唯一の入場券なのだ。
しかし実際に会ったギャツビーは、31か2そこそこの好青年で、
たしかにそれが返って「なぜこんな豪華な暮らしができるのか?」
といった数々の疑問を人々に持たせる原因でもあった。
そんなギャツビーにどこか胡散臭さを感じていたニックの気持ちが変わり始めるのは、
ニックの従妹であるディジーを、お茶に誘ってくれないかと頼まれたときからだった。
豪華絢爛な彼の生活の全てはかつて激しい恋をしたディジーを見つけるためで、
その思いだけが下層社会から上流社会へと彼を突き動かす全てだったのだ。
ディジーは今も昔も社交界の華として輝いていたが、
既にトムという夫と、娘が居ることが昔と違っていた。
しかしトムには愛人がおり、夫婦仲は冷め切っていたのだった。
そこでギャッツビーとディジーは出会い、再び恋に落ちるのだが、
その再会により、燦然と輝いていた2人の青春は、
悲しい終焉へと向かっていくのだった・・・。
夢の中に生きる男と、現実を生きている女。
会えなかった5年間を全て無かったことにして欲しいと願う男と、それを捨てられない女。
ギャッツビーの要求は無謀だったのか?ニックは冒頭でこう回顧している。
しかし、この敏感性は、「創造的気質」とえらそうな名称で呼ばれる
あのよわよわしい感じやすさとは無縁のものだった―
それは希望を見いだす非凡な才能であり、
ぼくが他の人の中にはこれまで見たことがなく、
これからも二度と見いだせそうにないような浪漫的信条だった。
そうだ―最後になってみれば、ギャッツビーにはなんの問題もなかったのだ。
むしろ、ギャツビーを食いものにしていたもの、
航跡に浮かぶ汚い塵芥のように
ギャツビーの夢の後に随いていたものに眼を奪われて、
ぼくは、人間の悲しみや喜びが、あるいは実らずに潰え、
あるいははかなく息絶える姿に対する関心を阻まれていたのだ。
この作品は何度も映画化されていますが、
豪華絢爛な様子が先走ったメロドラマ色の強いものになっています。
ということで、この作品を知るには、原作を読まれることをオススメします!
しかしあれだね、何時の世も男は勝手ですな。何度かおイタしたけど、
いつでも最後はディジーのところに帰る!愛しているのはディジーだけだっ!
と言いつつディジーのおイタは絶対に許さん!とご立腹のトム。こらっ、という感じですが。
まあそんなことも含め、また5年後くらいに読んでみると
違う感動がありそうな予感。だから本は面白いんですよね。